車折神社「重陽祭」で青菊奉納


「菊の節句」とも呼ばれる重陽の節句の9月9日、京都市右京区嵐山にあります車折神社にて、神事「重陽祭」が営まれ、本校和紙工芸専攻の学生4名が和紙で制作した青菊が奉納されました。

例年は40人ほどが参列するこの重陽祭ですが、今年は新型コロナ対策のため6人に縮小。
高田能史宮司が祝詞を読み上げた後、青菊を手に持った舞人が、舞楽を奉納しました。



例年は40人ほどが参列するこの重陽祭ですが、今年は新型コロナ対策のため6人に縮小。
高田能史宮司が祝詞を読み上げた後、青菊を手に持った舞人が、舞楽を奉納しました。





青菊には、コロナ治療の最前線で苦労されている医療現場の安寧を祈るという意味も込められています。
京都新聞社の取材に対して、3年の羽野さんは「菊の花びらを忠実に再現するのに、形や青の濃淡に苦労しましたが、満足できるものが出来ました」と話されていました。

青菊には、コロナ治療の最前線で苦労されている医療現場の安寧を祈るという意味も込められています。
京都新聞社の取材に対して、3年の羽野さんは「菊の花びらを忠実に再現するのに、形や青の濃淡に苦労しましたが、満足できるものが出来ました」と話されていました。


重陽祭も無事に終わって、宮司さんや神主さんを交えての記念撮影。
右端が神主さんです。
終始、緊張した面持ちだった学生たちに、ようやく笑顔が戻りました。


重陽祭も無事に終わって、宮司さんや神主さんを交えての記念撮影。
右端が神主さんです。
終始、緊張した面持ちだった学生たちに、ようやく笑顔が戻りました。




車折神社ってどんなところ?

車折神社(くるまざきじんじゃ)は、京都市右京区嵯峨朝日町にある神社。
祭神は清原頼業(きよはらのよりなり)。

頼業は、学問で有名な広澄流清原氏の出であり、自身も平安時代後期の著名な漢学者・儒学者でした。
大外記の職を長年務め、晩年には九条兼実より政治の諮問を受け、兼実から「その才、神といふべく尊ぶべし」と評されました。

頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられました。後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となりました。
車折神社(くるまざきじんじゃ)は、京都市右京区嵯峨朝日町にある神社。
祭神は清原頼業(きよはらのよりなり)。

頼業は、学問で有名な広澄流清原氏の出であり、自身も平安時代後期の著名な漢学者・儒学者でした。
大外記の職を長年務め、晩年には九条兼実より政治の諮問を受け、兼実から「その才、神といふべく尊ぶべし」と評されました。

頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられました。後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となりました。

社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいわれています。

境内社の芸能神社(げいのうじんじゃ)は天宇受売命を祀っており、芸能・芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けています。

「WikiPedia」より
社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいわれています。

境内社の芸能神社(げいのうじんじゃ)は天宇受売命を祀っており、芸能・芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けています。

「WikiPedia」より